ジェロニモは昼起きる。
 くるまったシーツから上手に逃れて、トーストを焼き、その間に歯ブラシを突っ込む。歯磨きは習慣なのか、必ず二回していた。口端にあるミントとシェーバーのクリームがごっちゃになるのは常で、まだ苦い口で私にキスをする。
 それからジェロニモは焼けたトーストを半分に切って、私へ。
 メープルは嫌いだった。だからジェロニモの塗ったバターだけで食べる。昼食未満の食事は、ジェロニモと摂るに決めていた。
 ブラウン管の見ていない映像と一緒に、スピーカーが音を鳴らす。昼間から流れるキッスミーに、相変わらずの惰性を飲み込んだ。
 ジェロニモは二度目の歯磨きへと、席を立つ。私は皿に残ったパン屑をベランダに落として鳥の餌にした。洗面所から聞こえてくる声に振り返れば、音もなくジェロニモは背後に。

「仕事は?」
「休み」
「なら、さ、水族館に行こうよ」

 せっかくの日曜日だ。
 ジェロニモはそう屈託なく笑う。だから私が頷けば、なぜだか頭を撫でられた。
 そしてジェロニモは名残惜しげな目をして手をひき、洗面所に引っ込む。

「ね、赤と青どっちがいい?」

 勢いよく水流の音がして、同時に洗面所から張った声。赤、と言えば、直後、歯磨きを終えたのか部屋に引っ込んでいった。
 なにかと思って消えた部屋を見ていれば、じゃーんっと言って現れる。ジェロニモは赤色のボトムスを穿いた長い足でくるりと回転した。

「ど? 似合う?」
「うん。いいと思う」

 頷くが、大概の服は似合うと知っていた。だってうつくしい顔をしているのだ。もう二十歳を随分と過ぎたのに、ジェロニモは日に日にうつくしくなる。もしもサングラスなんてしてしまったら、私も含めてみんな、ブラウン管の向こうを見ると思った。
 溜め息を吐きたくなるほどに、私はどうしようもなく、うつくしいものが好きだ。外見をなによりも重視して、側に置いておきたくなる。
 だから、ジェロニモ。知っているか。私はその五分も高い体温さえ、まるでブランドのように見ている。

「……そろそろ行こうよ」

 そうして誤魔化すように笑ったのは、自分のためか相手のためか。
 立ち上がって、その大きな手を引けば嬉しそうに笑ったジェロニモがいたから、それは自分のために違いなかった。






 イエローブラウンの車が走る。隣にジェロニモはいない。
 胸には、わずかな罪悪感だけがあった。車内で漂うのは知らない匂いだ。ジェロニモは煙草を吸わない。

「げほっ」
「あ、ごめん。煙草は嫌い?」
「……」

 窓を下ろせば煙は後方に流れてゆく。
 数時間前、私は水族館でうつくしい男に誘拐された。ナインティーンだと笑った男は自分よりずっと年下だけれど、どうしても、誘惑には勝てない。うつくしかったのだ。誘われるままに手を取った。
 ジェロニモには秘密。私はそうして男とベッドに入る。かん高い声をあげることへの抵抗はなかった。それでも自分の声をヘンだと思ったのは、あまりにも、男が暴力的だったからだ。

「ぼくらは良いセックスフレンドになれると思うよ」
「……そうだね」

 運転席で笑う男にうわべだけの返事をする。くだらないセッ.クスだった。

「お姫さまがいないって、きみの彼氏は気づいたのかな」
「どうだろうね」
「ふふ。ねえ、また会ってくれるでしょ」

 言葉に、やさしいキスを思い出した。ジェロニモは、いたわるようにキスをする。きっと私がうつくしいからとそれだけの理由でどこかに行ってしまったなんて、ジェロニモならば気づいているだろう。
 手を重ねて、うつくしいままに笑う男。近づく顔を、絡める素振りでほどいた指で阻止した。それでも罪悪感は、やはり、わずかにしかない。
 私は横断歩道を前に、赤信号で止まった車内で笑ってみせる。

「ナイトショーには不相応だ。ベイビー、喜劇みたいな夢を見て」

 男を残して車から飛びだせば、交差点の青に混じった。ひどく気分がいい。ネオンと雑踏と、その他大勢が盛大な拍手を鳴らしている。
 叫んだであろう男の声は撫でる程度にしか届かない。私はまるで酔ったふうに笑って、夜の街に消えた。






 そこから、どうやって帰ったのかよく覚えていない。
 目が覚めたらジェロニモが隣で寝ていて、繋ぎ止めるみたいに指を絡めていた。
 棚にある、ベルの壊れた目覚ましを見れば、十時を示す短針。朝食には遅いけれど、朝であるには違いない。洗い物と洗濯と、それから風呂に入ろう。ぼんやりと起き上がれば、ジェロニモが身をよじる。

「……起、きた?」
「うん。お前も、お前にしては早いね」
「ん」

 どこか宙を彷徨う視線はなかなか私をとらえない。ここだと伝えるのに頭を撫でたら、ジェロニモは緩やかに目を閉じた。もう一度、眠るのか、ジェロニモ。
 私がわがままを言うことは自分で言うがあまりない。けれど、いまだけは、わがままを言いたかった。
 ねえ、お願いだ。起きてくれ。

「……泣きそうな顔をするなよ」
「お前」
「わかってる。起きるから。昨日の話をして」

 どこにいたの、俺よりうつくしかった?
 ジェロニモはそう言って笑う。それから私の答えを待たず、トーストを焼きにベッドルームを出た。
 昼食には遅いから、ならば、これは朝食だ。ジェロニモと朝食を摂るのは、一体いつぶりだろう。歯磨きをして洗面所から出てきたジェロニモが私にトーストを渡す。かじりつけば、口にはメープル。

「あまい」
「でも、嫌いじゃないでしょ」

 メープルは、嫌いだと決めつけて食べなかった。
 けれど遅くに気づく、好きだ。離れるのは耐え難い。
 私はジェロニモの人差し指についたメープルを見つける。ジェロニモは気づいていない。だから私が引き寄せて、テーブル越しに舐めた。

「うつくしい。きっと、お前が一番に」

 見上げればジェロニモは、差し込む後光でアフロディーテのよう。それなら私は、神に恋する人間だ。

「許して、アテネに恋は出来ない」
「俺を選ぶってこと?」

 ナイトショーに相応しいのは、ジェロニモだと思った。だってこんなにもうつくしい。女神ではないが、それは、確かに。
 首を傾げるジェロニモに頷く、なぜだか頭を撫でられた。そうして顔を寄せて結婚しようかなんて笑うジェロニモは、ひどいひとだ。結婚だなんて、そんな。
 まるで宣戦布告だ。ジェロニモの言葉は、私を一生愛することとイコールになる。
 口を開こうとすれば、ジェロニモは私にキスをした。苦くない、これは、メープル。
 それで、どうしようもないと、わかっていた。ブラウン管から、相変わらずにキッスミーが流れている。だから、もう、救いようがないのだ。



 ねえ、教えて、ジェロニモ。つづきのない夢だっていい。老衰さえうつくしいのだ。










 Mr.ジェロニモ|2011.1113

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