(かみさま、)
夜明けは濃い群青に真朱を垂らしたようであった。見上げても端の方はほどけてしまってないようだ。こんなに深い夜でさえ、天体の発光は一つも見えやしない。
俺は暗がりで重たい蓋を開けて、上質な赤い布を隅へ丸める。坂の上に住むのは俺しかいない。だから思うままに指を添える。
意識的に息を吐いたあと、一度目を閉じた。北の果てに滅んだ仮想の国を想像する。朽ち果てた城。まばらに雪の残った草原。そこへ浮かぶ輪郭の青い雲の影。玉座には、絶滅したはずの太古の花が巻きつき咲いている。人々の骨は泥にまみれ、中央の時計台だけが、百年を過ぎてなお正しく動いている。誰もいない王国に、始まりの音。廃墟を抜けて鐘が響く。
開いた双眼には、重くハンマーを押し上げる指があった。弦を震わす鳴りは鐘の心像だ。カーテンがレースを巻き込んで翻る。差し込んだ月明かりが鍵盤の上を舐める。
いくら一人だからと言って、こんな時間から仕様もなく弾きたくなるのを抑えられないのは、おかしいことなのだろうか。たとえばもし、これを気狂いと言うのなら、一度だってまともではいられない。
俺は繰り返し繰り返し、同じフレーズを打鍵する。似たような指の形で、けれど確かに違った音の連続で。どこかでラララと聴こえたことが、すでに正常さを蝕まれている証拠なのだとしたら、俺は。
もう思い出せないほど遠い昔から、救われたかった。
日が昇った頃にピアノをやめて、坂の下のゴミ捨て場に燃えるゴミを置いてきた。端に、ずいぶん古い新聞が積まれていて、その一番上によく知った名前がある。見なかったことにしようと思ったけれど、できなくて、だから抜き取ったその場で火をつけた。ポケットに入れてあった百円ライターに感謝する。頃合いに、名前の燃えた新聞を踏み消す。
「どこか痛むの」
帰りに、空の車庫の暗がりで、男がうずくまっているのに気がついた。
近所では見たことのない姿に声を掛ければ、男がのろのろと顔を上げる。うねる髪のあいだから光る虹彩は嘘のように黒かった。男に痛がる様子はなく、それどころか、俺の顔を見て笑ったようだ。
「あ、あ。神様みたいな音の……」
男は俺のピアノを知っているらしい。
喘ぐみたいにそれきり続く言葉は失われ、代わりに、男の押さえた腹の虫が鳴く。俺は開きかけた口で、昔会ったことでも、と尋ねようとして、そのままやめた。もしどこかで会っているなら忘れるはずがない。こんな男が相手なら、なおさら。
俺は、震えそうになる唇を懸命にこらえて、微笑んでみせる。どうしてか仲良くなれる気がした。
「ねえ、歩ける? 家へおいで。味の保証はできないけれど、腹を満たせるぐらいはするから」
うつむきかけた顔が、またのろのろと持ち上がる。日向に出てきてようやく、男が、近所どころかこの国の人間ではないと知る。
立ち上がる時に、襟元から酷い傷跡があるように見えたけれど、すぐに隠れて見えなくなった。もしかしたら逃げてきたのかも知れないとその時になってようやく気づく。それでも構いやしないと思った。
明治と言うんだよ、と教えたら、男は「アスラ。阿修羅の語源なんだ」と名乗った。
玄関で靴を脱ぐのだと言おうと思って男の足下を見たら、そもそも履いていなかった。どうせ汚い家だしあとで拭けばいいと思ってそのままリビングに通す。少し待っていてと指示すれば、ダイニングチェアに座って大人しくしていた。
「いつから食べていないの?」
パンを探したけれど、カビが生えてしまってこのあいだ捨てたばかりなのを思い出す。ゴミを出す前に炊飯をしていてよかったみたいだ。炊きあがるまでまだもう十分ある。
俺は手を洗ってからキッチンの、白いタイルの壁に下がるフライパンを手に取ってコンロにかける。油をひいたら、その上で卵を割った。黄身が二つの目玉焼きをつくるあいだに少しずつ会話をする。
「こっちへ来た時だから、二週間ぐらい前」
「へえ。よく生きてたね」
「慣れてるんだ。雨水とその辺の草を食べていたらもう二週間ぐらい平気だよ。それにゴミもある」
「ああ」
頷いてみせたけれど、今までどうやって生きてきたか、二週間より以前の背景が見えない。なにも持たずにここへ居るぐらいだから、やはりどこかから逃げてきたのだろう。あまり語りたくないふうなのがわかるから言及はしなかった。
俺は、できた目玉焼きを皿に乗せて、今度は冷凍庫から出したソーセージの袋をあける。長らくなにも入っていない胃にはつらいだけであろうから、どちらも俺の分だった。
香ばしい匂いがし始めたところで、炊飯器がアマリリスを鳴らす。炊けたものを牛乳と一緒に鍋へ入れて煮る。あとは少しの塩、胡椒、ついでに卵。ミルク粥をつくる途中、スイッチを切り忘れてずっと保温されているポットのお湯で、一人分のココアをいれた。
「飲んで待っていて」
マグカップを持って、男が大人しくしているテーブルに行く。手渡せば、男は頷き受け取って、口元をほころばせた。
「あまいね」
それから手早く粥をつくって食卓に出すと、よほど腹が減っていたのか熱さも気にせずにかき込む。俺が茶碗の飯を半分も食べないうちに、器の中は空である。
「すごいな。胃が痛んだりはしないんだ。腹が減っているのならこれも食べていいよ、修羅」
「……俺のこと?」
「他に誰が? この家には俺とお前しかいないよ」
目玉焼きとソーセージの乗った皿を正面に寄越す。なぜか修羅はスプーンを握ったまま呆気に取られていた。
「ありがとう。明治は親切だね」
日本語を流暢に操るようだけれど、シの発音は上手くないみたいだ。
俺は微笑み返して、修羅のためにフォークを取りに行く。
そうして、食事を済ませたら風呂を沸かし、手順を教えて修羅を浴室へ押し込んだ。中で苦労している様子に思わず笑うと、修羅の母国の言葉なのか、聞き慣れない音が飛んでくる。意味はわからなかったが、たしなめるような声音だったから、ごめんごめんとおざなりに謝って、俺は汚れた床を拭きに出た。
それからというもの、住まわせてくれとも言われないが出て行けとも言わなかったからか、俺と修羅は生活を共にするようになった。お互い利点がある暮らしではない。それでも、修羅が居て楽しかった。
「明治はピアニストじゃないの?」
ここへ住まうようになってからひと月が経った二月の真夜中、修羅からそんなふうに訊かれた。
修羅は決して俺が眠るより先に眠らない。起きるのはずっと遅かったけれど、どんな時間でも俺より早くベッドへ入ることはしなかった。そうして他愛のない話をして眠るのが日課になっていたのだ。
だから今日も同じように、修羅は布団へ潜る俺の側へ椅子を寄せて座っていた。
修羅の口振りは、まるで今までそうだと信じていたようだった。俺は動揺を隠し切れずに飛び起きて、震える声でそれを否定する。掴んだ腕に指が食い込むのがわかった。それでいてなお上手く脱力できないままいる俺を修羅が真摯に見つめる。痛がりはしない。
「どうしてそんなことを」
「どうして? だって明治の指には神様が宿るようじゃないか」
何度も上擦ってようやく言葉になる。俺は喉がひきつるのを抑えきれない。
修羅の黒い目に、限界まで見開かれた俺の目が映っていた。思わず口を開いて、声もなく笑う。こうでもしなければこぼれてしまうと知っていた。目頭が恐ろしく熱い。
「本棚にあった、赤いファイルを見た?」
「うん。あんなにたくさん賞を貰っていたのに、どうしてピアニストじゃないの。俺は難しい文字は読めないけれど、あれは全部、明治だろう」
俺の名前を呼ぶ時だけ、いやにやさしい響きになる。修羅は、俺がそうだと頷くことができないのをわかっているようだった。
修羅の見たファイルの中には、新聞だとか市のたよりだとかそうゆう古い記事がしまわれている。すべて俺の名前が載っていて、俺がピアノのコンクールでいい成績を取るたびに、母が切り取って綴じ込んでいた。
「一番、最後のページも、見たのか」
「うん」
けれどそれも、十年前の日付から更新されていない。
俺は修羅が小さくあごを引いたのを見て、その腕を、一層強く掴む。声が上手く出るかわからなかった。
「お、俺が知ったのは、半年後だったよ。俺は小さい頃からずっとピアニストを目指していて、両親はそれを応援してくれていた。大学は、親元を離れて、ピアノの上手い、先生の有名なところに入って……最初の頃はすごく楽しかったんだ。本当に、俺は、ずっと楽しかった。でも、ある時、先生からお前の音は楽譜通りでつまらないと、言われて、それから……それからはもう……」
口から、泣き出す寸前のような声が漏れている。修羅は俺の言葉に耳を傾けて、身じろぎもしない。
「弾くのは好きだった。上手く弾けなくても嫌いにはならなかった。でも、なにを弾いても楽しくなくて……別の道を探そうとしたのだけど、それもできなかった。生まれてからずっと弾いてきたものを、突然、捨てるだなんてことは……俺には、それだけ、それだけだったから。ピアノしか知らなかったから」
打鍵したがる指だった。それ以外、なんの意味も持たない両手を持っていた。誰かを抱擁するように生きることも、もしかしたら、できたのかも知れない。けれど、そうしなかった。そうしなかったのだ。
「俺はそれ以来コンクールに出なくなって、中途半端に、やりたいこともわからないまま卒業した。当然、行く宛はない。それでも両親のところへは帰らなかった」
弾き続けることを手放しに喜んでくれた両親のところへ。帰らなかったと言ったけれど、本当は帰れなかった。悲しませたくなかったのだ。失望して欲しくなかった。
俺は修羅のまるい目を見ながら、どうにかその腕を離す。シーツに落ちた両の手はもう二度と動かないように見えた。いっそ本当に動かなくなってしまえばどうだろう。神様が宿るようだと言ってくれたこの指が、腕が、動かなくなったら。こんなでたらめに動く指を大事にして生きるのをやめられるのか。
それきり押し黙って、俺は窓の向こうに視線をやる。夜陰の天蓋に光る星は一つもない。修羅が俺の名前を呼ぶ。
「それで、どうなったの。それだけじゃなかったのだろ。お前は、それでどうなったの」
なにもかもをすべて知っているような声だった。
誰にも話せなかった半生を、今、お前に明かせるのはどうしてだろう。
「ある日、両親は今日みたいな向春の晴れた日に、乗用車に乗って海沿いを走っていた。運転していたのは母だろう。いつも母の車の助手席に父が座っていた……それをよく覚えている」
子どもの頃、運転の下手だった父親と、しょっちゅう助手席の取り合いをしていた。ジャンケンで決めていたのに、俺はほとんど助手席に乗ったことがない。母親はその光景を見るたびに、快活に笑った。
「二人が家を出たのは午後二時。休憩を挟みながらも、六時間ぐらいは走らせていただろう。海沿いの道を走りながら、もう一時間か、二時間か、それぐらいで目的地へ着くはずだった。あと少し、あとほんの少しだった……両親の車は、後ろから、飲酒運転をしていた車に猛スピードで追突された。その勢いで、ガードレールから押し出され、車体は海に落ちたそうだ。遺体は激しく損傷して、酷いものだったという」
それを俺は半年後に知ったんだよ。
自分の口から吐き出されているのではないような、死んだ声。眼窩の奥から涙がにじむのがわかる。だから、こぼれないようにまばたきをしないで、うっそりと修羅を見る。
「なあ、俺の両親は、いったいどこへ向かっていたと思う?」
追突した相手はそのまま逃げた。目撃者は誰もいなくて、翌朝まで事故があったことに気づかれなかった。二人の捜索が始まったのは、転落した後、約八時間が経ってからだったという。
車体は大きく破損して、窓ガラスは割れていた。どんなに探しても、遺体の一部は流れてしまったのか見つからない。
それから俺のところへ警察が来たのは、八月のことだった。その頃には誰にも連絡を取らず、ゲストハウスなんかを点々としていたし、テレビや新聞を見る余裕もなかった。遠縁の親戚から遺骨を渡された時、初めて、それが真実だと。
「明治に会おうとして……」
「ああ。一度くらい帰ったらよかったんだ」
当時の新聞を探し出して、鋏でそれを切りながら、俺は、むせび泣いた。思いもしなかった。もう二度と会えないと、抱き締めることができないと。
口端を無理に押し上げて笑った拍子に涙が落ちる。いくつもいくつも沈んではシーツがまるく波打った。一番最後のページにあった事故の新聞記事と同じように。
修羅が俺の手に触れる。開かれた手のひらに爪が食い込んで赤く血の滲んでいることにようやく気がついた。
「許せないのはこの俺だ。事故を起こした相手のこと、恨まないと言ったら嘘になる。でも、それでも、許せないのは俺なんだよ、俺なんだ……ねえ、修羅。楽しくなくなって、聴かせたい人もいなくなって、そんな場所で、俺は……俺はどう生きたらよかったのかなあ…………」
間違いだらけの人生だと振り返りながら、問いかける。今までも、これからも、俺はきっと間違い続ける。
こんなことを尋ねるのは酷いだろうとわかっていた。答えを欲していたわけじゃない。俺は、ただ。
「……わからない。だけど、本当に、すべて間違いだったの?」
長く考えた末に、小さな声で修羅が言う。嘘のように黒い目が、まるく、俺を映している。
本当に、すべて間違いだったの?
「違う」
あらゆるところが傷んで仕方ないな。絞り出した言葉は必死に響いた。
だって、お前と食べること、眠ること、俺のピアノを誉めてくれたこと、他愛のない話をしたこと、共にした生活はずっと楽しかった。出会わなければ良かったとは、どうしたって思えない。
神様みたいに鳴らしたかった音を、そうだと言ってくれた。これ以上、幸福なことがあるか?
「聴かせたい人はもういないのかも知れないけどね、明治、聴きたい人はいるのだよ」
俺は、ただ、生きてもいいと。
「い、生き直せる、の、かなあ? もう一度、夢を見ても、許されるのかなあ? それで、誰か、おっ、俺を、肯定してくれる?」
開かれた手のひらで、修羅の腕を掴んだ。母が子を抱くのによく似た仕草で、俺は、そうっと、修羅に触れる。痛まないように、傷つけたりしないように、今度は間違えない。
「できるよ。明治なら」
「な、何年かかるか、わからない」
「それでも、それでもだ。俺が待っていてあげる」
楽しかった。聴かせたい人ならいた。神様みたいだと言ってくれた。俺のことを、こんな俺のことを。
修羅、俺の生活にはお前がいた。それがどれほど救いになったか、わかるか。
「今度は、お前の半生を教えてよ。それで修羅、俺たち生き直そう」
肌に触れた修羅の手があんまりにもやさしくて、他のことはみんなほどけてしまうみたいだ。過不足ない祈りのように抱き締められて、だから同じように、俺も動かなければいいと思った手を伸ばして抱き締める。
その時、ふと、どうして今まで気がつかなかったのだろうと考えた。だって思い切り伸ばせば、この腕は。
たった一つ、それさえあれば生きてゆけると思っていた。でも、それじゃあ淋しかった。淋しかったんだ。
「俺はね」
お前となら、抱擁するように生きることもできるかもしれないと思った。
メロウ|2014.0316