せめて気がふれていれば良いのに、最初から最後まで正しかった。ニコルソン。なぜ正気でいた。











 ニコルソンは殺し屋に生まれた。
 元来両親がその家業だったというわけではない。ニコルソンは街で二番目に人気のパン屋の息子だ。裏通りにあるから知れていないが、実は一番目に人気のパン屋より美味いパンをつくる。しかしニコルソンは殺し屋に生まれた。
 出会ったのは半年前だった。季節は夏だ。私はニコルソンに恋人を殺される。

「まだ朝じゃないから寝ていて良かったんだよ。そしたら俺が死体を外に埋めておいてあげたのに」
「……殺したの?」
「うん」
「なんで殺したの?」
「生活があるから。あと質問に答えるのは三つまでだ。全部教えて貰えると思うなよ」

 真夜中の銃声で起きた。森の奥の小さな貸別荘で生活していたから、私以外には誰も気づかなかった。当然だ。誰もいないのだから。今にして思えば恋人は殺されることを予期していたのだと思う。
 眠る恋人を探しに隣の部屋へ行くと、月の明るい夜を背にして男が銃を胸にしまっていた。見ると、人を殺したとは思えないような顔で笑う。

「復讐なら日が昇るまでに頼むよ」

 キャスターを吸いながら男は言うのだ。煙硝と生臭さを特有の香りが満たす。

「あなたは誰ですか」
「ニコルソン。殺し屋をしている」




 それからどうしてかニコルソンに連れられて、剥げかけの看板がかかった探偵事務所の横の、水槽のようなニコルソンの部屋に移った。部屋の真ん中に一人で寝るには広すぎるベッドがあって、あとは洗面所とシャワー室とそれだけ。電波は届かないらしかった。小さな丸いテーブルが、唯一ニコルソンの持ってきた家具だと言う。あるのはテーブルの上の灰皿と安っぽい赤のライターの二つで、それ以外には時計もラジオもなかった。
 ニコルソンは、俺は他にも部屋があるから好きに使って良いと言ったきり出て行って、しばらく帰って来なかった。実際ニコルソンにはいろいろな場所に他の寝床があるようで、帰って来るのは稀だ。事務所は使われていないらしく、ニコルソン以外に誰も尋ねて来ない。
 その日私は、腹が減ったら事務所のダイニングで料理をしろとはじめに言われていたので、不定期に帰るニコルソンから渡されたお金で卵と小麦粉を買ってきた。作りすぎたなあと二枚の皿に乗せたとき、ちょうどニコルソンが帰って来て、ほころんだのを覚えている。

「分量を間違えたの。作りすぎたから食べて。ねえ、パンケーキは好き?」
「あァ。好きだよ。……そういえば俺はパン屋の息子だったけどパンは一つも焼けなくてね、でもパンケーキならとびきり美味いのが焼けるんだ」
「へえ、じゃあ今度食べ比べてみようよ。どっちが美味しいか。良いでしょう?」
「うん。でもきっと俺が勝つよ」

 二人して声をあげて笑いながら、テーブルの上に散らかった、いつのだかわからない新聞をどかす。私がパンケーキを置くと、ニコルソンはきれいなフォークを選んできて、向かいに座ると一緒にいただきますを合掌した。
 胃がはちきれんばかりにパンケーキを押し入れると、あまりの苦しさにベルトが飛ぶ。それを見たニコルソンは子どものような無邪気さで笑っていた。


「夢を見るよ。起きたときにはどんなのか覚えていないけれど、でも、ひたすらに綺麗な夢だ」

 いつの日のことだったか、水槽のような部屋で金魚みたいにシーツを漂って寝たことがある。
 ニコルソンは背中を向けないから、いつも通り左を向いた私と向かい合ってベッドに入ったのだ。その頃私は、ニコルソンが帰って来た日には他にベッドがないから一緒に寝ていた。今にしてみればおかしなことだと思うが、当時、私とニコルソンの間には邪なところがなにもなかった。一度だって抱き合ったことがない。
 ニコルソンはそれこそ夢見るようなやさしい声音を出す。

「最近はとくによく見る。それも、夢の中で同じ夢だと気づいているのに、覚めると忘れているんだ。……ばかばかしいかな。お前を見ると時々、夢のことを思い出しそうになる。そうしてもう一度見たいと思っているんだから」

 横たわる前にニコルソンの吸った、キャスターの匂いがする。

「深層心理かもしれない。あなたが望んでいることを夢見ているとか」

 なるほどね。俺が望んでいることを思い出せば、夢も思い出せるのか。
 ニコルソンは気が違ったようにやさしく微笑む。ここで笑うのは、いくらなんでもひどいと思った。悪夢だ。こんなものは。

「お前は俺が怖くないか。俺はもう何人も人を殺したよ。きっとこれからだって殺していくよ」
「うん。最初に聞いた、生活のためだって」
「そんなもの……じゃあ、お前は今まで、そんなものを信じていたの。それならお前。お前の恋人を殺したことも、そんなもので」
「そうだよ。それに、こんな震える殺し屋の、いったいなにが怖いんだ」

 抱き締めてやるにはベッドが広すぎて、溺れてしまうそっちのほうが怖いだろうと思ったから、私は手を伸ばしてニコルソンの握りしめた拳を掴んだ。爪が、柔らかい手のひらの肉に食い込んで痛そうだった。ゆっくりと開く指が私をなぞる。

「俺は殺し屋に生まれたけどさ」

 ニコルソンはぶるぶる震えたままで、けれどそれなのに、微笑む姿はあるべき姿のようだった。

「本当は殺したくないんだよ」




 ニコルソンと汽車に乗って南へ向かったのは、確かに冬の終わりの明け方だった。ニコルソンが私を連れて歩くのは、あの真夜中から二度目になる。
 停留している汽車の横にある売り場に向かうと、後ろから来たニコルソンを含めて二枚の切符を買った。その際、切符売り場のお姉さんにきょうだいですかと訊かれたので、恋人ですと勝手に答えたら、ニコルソンは腹を抱えて笑った。

「殺し屋ではいられなくなった」

 降りた駅は、無人だった。
 昔一度来たことがあると続けて、ニコルソンは以前の自分の発言をなかったかのような素振りで歩きだす。遠くなる背中を眺めていたら、ニコルソンが一度立ち止まって私を見て、けれどすぐ、また交互に足を動かした。今度はもう止まってくれそうにないから、あわてて追い掛ける。

「夢のことを思い出したんだ。だからお前を連れ出したんだけど」

 唐突にニコルソンは白状する。
 隣に並ぼうとすると駆け足になってしまうから、今さら、私に合わせてくれていたのだと思い知った。そのときふと、私がずっとニコルソンのやさしさによって生かされていたのだと気づく。


「なあ。お前は恋人のことを、ちっとも好きじゃなかったんだろ」
「うん」
「それも、本当は赤の他人で、恋人なんかじゃないんだろ」
「うん」
「どうして嘘を」
「かわいそうだったから」

 高台の、破れたビニールハウスの中に入って、なにかの跡地となったその真ん中にニコルソンは寝転がった。隣に座って手をつけば、爪のあいだに腐葉土が入り込む。まるで隙間をひしひしと埋める日々のようだ。日々は淀んでうつくしかった。

「……誰かを愛するようにいたなら、こんなふうにはならなかったのか」

 奪う側ではなく与える側であったなら、あるいは。

「でも。お前と出会わなければ良かったとは、どうしても、思えないんだよ」

 ニコルソンはそう言って、ひどく豊かに微笑む。
 それを見た途端、目の奥を熱が這いずった。あふれんばかりの涙が溜まって、なにもかも滲んでいる。ニコルソンの顔は、表情は、どこか嘘のような、微笑みは。すべてがこうなる運命だったのか。
 せめて気がふれていれば良いのに、最初から最後まで正しかった。ニコルソン。なぜ正気でいた。

「俺の夢を叶えてくれ」
「……だめだよ」
「お前だけなんだ。お前にしかできない。俺の夢を、お前が」
「いやだ」
「後生だから、叶えてくれ。俺の。夢を」

 差し出されたニコルソンの手には、銃が握られていた。はっきりと覚えている。これを見るのもまた二度目だった。

「夢の中ではこうして俺が空を仰ぐようなかたちで、その隣に、お前がいる。笑ってみせるとお前は泣くよ。だから余計笑ってしまうの」
「ねえ、いやだよ。こんなところじゃなくて、もっとずっと遠くに行こうよ。ねえ、二人で。ねえ」
「俺の体は水の底に沈んでいるみたいで、だのに、泥の匂いがする。日の光があたたかくて、花の蜜の、たおやかな春だ。どうしようもなく。そう。春だった。そうして俺は、いたくしあわせなんだよ」
「いやだよ、聞けよ、いやだって、ねえ」

 おだやかに笑うニコルソンが心臓の上を撫でる、内側のそのポケットからキャスターを取し出して、安いライターで火をつける。キャスターの匂いが鼻先をかすめて、嗚咽が漏れた。肺を痛めながら煙を吐いた口が言う。トリガーを引け。
 ニコルソンのその夢を、夢の話だと笑っていれば、なにか少しは変わったのか。殺した五臓六腑を思い出す。

「行こうよ、もっと南のほうへ下りて、それで」
「冗談を。行く場所なんてないくせに。お前は、あそこへ帰るしかない」

 だからお前だけなんだ。
 ニコルソンは繰り返す。手にした銃の重さに、手が、腕が、埋まっていくようだった。私はニコルソンの言葉のそのすべてを理解して嗚咽が止まらない。
 私以外の誰にもわからないだろう。こんなひどい話は、誰にも。

「難しいことじゃない。一発で良い。心臓を狙うんだ。なに、お前ならすぐできる」
「死ぬしかないの? それしか、だめなの?」
「うん。俺はもう十分なんだ。……せめて最後に、お前に名前をあげるよ。地下室のような、真夜中のような、あの部屋と一緒に」

 ニコルソン。舌に馴染んだ名前を、もう一度呼ぶ。本当は、銃の名前なんだとも。

「あなたは誰ですか」

 丸めた人差し指を引く。最後に見た男の、かたち作った口の動きは。男の名前か、私の名前か、聞きなれた殺し屋か、そうではなくて、I love youだったのか。
 銃声が鳴り響く。祝福のファンファーレにどこか似ていた。キャスターの匂いがする。キャスターの。ニコルソン、の。




 絶えた命の傍らで、空腹を思い出したら、あの、地下室のような真夜中のような、水槽のような部屋へ帰ろうと思った。
 なにも望まず、好きだと言ってくれたなら、一緒に生きることもできたのに。










 ニコルソン|2013.0419

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