四季のうち、夏だけが異様に暑く、あとは雪ばかりが降る街だった。積雪は冬の多いときで、ここからさらに北へ行った、サカエの地より深いと聞く。夏は、最南端、ハリよりも暑い。
 街の中心部から離れた丘の上には、蔓の這う教会があって、その壁を覆うのは、ツルムラサキの葉。周囲に民家はなく、静けさに讃美歌だけが時折聞こえていた。
 歌っているのは、おそらくレコードだろう。聖歌隊は子どもの不足でもう五年以上なかったはずだ。ましてシスターは、老婆か、年配の女しかいない。
 あくびをして教会の中に入ると、そこには、偶像のもとで目を閉じているだろう男がいた。足音は無意識にいつも消す努力をしている。けれど、どうにもだめらしい。

「おかえり」
「……こんにちは」

 振り向いて、おだやかに笑う男は、この教会の司祭さま。シスターと同じく白と黒の服を着て、休日になれば聖書を読む。それでも服さえ脱いでしまえば、教会などとは無関係に見えるほどだ。
 わたしは一度立ち止まり、扉に最も近い椅子に座る。再び神様に向き直る司祭さまの祈りはどんなものだろうか。十字架を抱く像の前で、司祭さまが頭を垂れる。
 そうしてしばらく経ち、顔を上げた司祭さまが私を向く。微笑みはたおやかに、愛情を見いだす。

「今日はいつもより遅かったね。スカーフは見つかった? それから、懺悔することは」

 なくしたと告げた昨日を、多くの懺悔を聞いてなお、覚えているらしい。司祭さまの脳みそには、記憶がぎゅうぎゅうに詰まっていることだろう。
 きれいな人だと思うのに、ときどき汚らわしく見えるのは、わたしがまだ大人でないからだ。
 落ち着いた色の両の目は、あいかわらずにわたしを映す。

「ないわ」

 そう言って立ち上がり、司祭さまより先に協会を出る。空は西の方が黄金色に光っていた。夕やみがじりじり蝕むのに、まるで輝きを失わない。にじむ以上に強く、油の垂れるような光だった。あそこになら天国だってあるのかも知れない。
 行く先は決まっている。草葉の茂った、なだらかな丘の斜面。懺悔室には一度も行ったことがなかった。
 わたしは、スカーフのないセーラー服を風でふくらませ歩く。振り返ればきっと、やさしい顔をするのだろう。
 ねえ、ねえ。司祭さま。十全でないなら、祈ることに意味はないよ。祈りは偶然に人を救うけれど、隔てなく叶えてはくれない。だから、励みもせずに救われようだなんていうのは、おこがましいのだよ。

「見て。自傷した覚えも人から受けた傷もないのに痛いの」

 歯切れ良く言って、振り返ると同時に袖をまくる。シャツの下には、真横から受ける光で、黄色に見える肌があった。

「人の言葉が刺さるのよ。痛みだけが具現化して矢のように一直線に飛んでくる。けれど、わたしにしか見えない」
「そうだね、知っているよ」

 頷く司祭さまの目は、まるでわたしをいたわるよう。
 侮蔑の視線ばかり受けてきたわたしを、一つも余さず信じてくれたのは、司祭さまだけだった。

「司祭さま。わたしを悪魔憑きだって、笑う?」


「いいや。笑わないさ」




(パリ――――――む――むしゃ――――――パリ――パリパリ――――サク――――むし――――ビリ――ビ――――ッ――――――ゃくしゃ――しゃ――――――しゃむしゃ――――)

(ごくり)




 庭に植えた草花はもうだめになってしまった。一週間前、ようやく雪の下から芽が出たというのに、素知らぬ顔で母が踏みつけるからだ。母はわたしの勝手をとかく嫌う。
 家に帰るとソファには今朝と同じように母が寝転がっていた。気だるげに開かれた目が恨めしそうにこちらを見る。

「また教会へ行ったの? 止してと言っているじゃない」
「……ただいま」
「嫌な子」

 短く答えて階段を上れば、母の声を背中に聞くことはない。わたしは弱々しい身なりのくせに、よく聞こえる、あの高い声を、うるさく耳障りに思っていた。
 同様に母だってわたしのことが疎ましいに違いない。実際、それは態度だけでなく、言い聞かされていた。悪魔や化け物など、この十数年でいったい何千何万言われたことだろう。早く出て行けと言ったところで、わたしがいなくて困るのは母だった。
 生活費さえ稼ぐ気のない母のことだ。十五年前に離婚した男からの金がなければ、たちまちのうちに生活は破綻する。けれどその用途は正しくあらずに、二日以上なにも口にしないことだってごくごく普通にあった。
 そうして習慣の末を求めて行き着くのは、父だ。
 あの日、わたしに選択の余地があって、選んだ人がもし父であったなら、わたしは、わたしはこうでなかったのかも知れない。例え父母の選択程度で変わらないにしても、父ならば、理解は得られたのではないか。
 わたしはわずかに頭を振って、現実味のない世界の構築をやめる。妄想がすべてを腐らせるのだ。ぼやけて思い出せない他人だけを頼りにしているなど、そんな。くだらない。
 上がりきってすぐにわたしの部屋があった。西日の差し込む、決して広いとはいえない部屋だ。入って右側にベッドがあって、左側には壁を向くよう机がある。一直線上にある窓はベランダへと続くのだが、立つと軋み、ベランダごと落ちそうな感覚になるのでそこにはあまり出なかった。
 わたしは焼き付いた言葉を払うように頭を振って、ノッブを回す。外側に鍵がついているくせ、内側についていないのは後々つけたからというだけの話だ。生まれる子がわたしみたいなものだとは、誰も思ってもみなかっただろう。
 忌み子だと、指された言葉を反芻する。祝辞を受けるはずの日から、目にした誰もが嫌な顔をしていた。慣れたものだと平気な顔でいるのはたやすいけれど、普通でないと気づくのだって同じだ。思い返すたびに、かゆみに似た感覚で喉がただれるよう熱くなる。そしてそれは酸欠じみて苦しい。
 四方を山で囲まれ、閉鎖的なこの街で、わたしを知らない人などわずかにもいるまい。滅多に来ない外からの人間でさえ、わたしのことを知っているのだ。だからこの街で安息を求めるのは、なにより、愚かな。そんなものは果てない夢だ。
 バイクの音がして、ちょうど五時にポストのふたが鳴る。紺の制服を着た配達員が投函して行ったのだろう。わざわざ下に出て確認せずとも送り主が誰だかわかっていた。先生だ。




(××あれが××××××××ぞま×い××××××なに×考×××る×××××ない××××けも×××つま××い××××あ×ま憑××気味××い××お前なんか×××××)

(ごくり)




「やらしい」

 ぎょっとして振り向いた司祭さまに、わたしはにやにや笑ってみせる。司祭さまの背後では、水を与えられた花が息衝いてそよいだ。
 教会の中だけとは言わず、市街地でさえ、年中鮮やかな花が咲いていた。雪の季節は特に黄色が、夏になると赤が、紫や白といった花々の中からいたるところで見られた。
 街の南側ではすでに雪解けが始まったと聞く。ここにも春の終わりが、近づいているに違いない。

「司祭さまじゃなくて先生のことよ。また、手紙が来たの」

 不定期に、最低でも一週間に一度は送られてくる手紙の量と言ったらない。書かれていることは言い回しこそ違えど、ほとんど変わらなかった。
 便箋の抜き取られた封筒を紙ヒコーキに折って飛ばす。司祭さまの手前で墜落するものだから、紙ヒコーキとしては出来損ないのよう。

「はぁ。けれどそんなことを言うものではないよ。先生なりの優しさじゃないの」
「馬鹿ね。それが本当ならどれだけ良いか。あんなもの、生徒を見る目じゃない。下心だってそう」
「……で、君はその“先生”から性的な目で見られていると」
「うん」
「三十何人のクラスから、わざわざ君を選んで、性的な目で」
「うん」

 自意識に問題があるんじゃないと、司祭さまが笑う。始めから、おだやかな目をして笑う人だ。
 言葉を交わすあいまにも、水が、いま育んだ、片手に持たれるじょうろから、ぽたりぽたり垂れて土にしみる。それから数歩先の紙ヒコーキを拾って、司祭さまは自然であるかのように、上手にわたしの膝の上へと飛ばした。

「もっとも、君が学校に行かないからだと思うけれどね」
「たまに行ってる。それに、みんな頭が悪いんだもの」
「……」

 頭のレベルで言えば、わたしより上位のほどは何人もいるだろう。けれど、そうではない、違うのだ。
 呆れているのか、でも司祭さまだって昔に気付いていること。

「君は愛をもちなさい。すれば良いことがあるよ」

 わたしの話を聞きたがるわりに否定的なのは、司祭さまがオプチミストだからではない。むしろ猜疑的で、司祭になんかまるで向いていないと、わたしは思っている。
 だってロザリオはその胸にない。老いぼれのシスターたちは側に寄らない。よそ者なのだといつまでも丁重にいる。天使のような聖歌隊は集まらない。それでも、ここにはやさしい祈りがあった。

「なによ」

 欠けた信仰心が隣人愛を説くのなら、むずがゆさにくしゃみが出そうだ。

「アガペーなんて信じてないくせに」

 愛の存在など、おかしい。縋れるものなら滑稽だ。司祭さまの目の奥だって、シニカルに物語る。それなら噂話ばかりのシスターのほうが、まだ、無償の愛を信じているだろう。
 司祭さまはにんまりする。じょうろを置いて、口にした言葉は仕返しに似ていた。




(ほら××××××××××お×まし××っち×見た××を×××いる×××からな××××ばけ×の××××らない×××××くま×き×××が悪い××お前なんか×××××)

(ごくり)




 きちんと理解するまでにかかった時間が、はたしてどれほどのものだったのか。差異を意識したのは、初めてわたしを悪魔憑きと呼んだ司祭が、惨いものでも見るかのように薄ら笑いを浮かべた日のことだ。あの明確な悪意を、わたしはいまなお覚えている。
 ところで、わたしは五歳と二ヶ月まで市街地の片隅に住んでいた。隣家の子は同い年で、母親とよく似たレモンに近いブラウンの髪に、フリージアの若葉の色をした大きな目を持つ女の子だ。夢は、ふたりで大きなケーキ屋さんになることだった。わたしと女の子は習慣みたく、毎日ショートケーキを食べようねと、指を切る。
 いま思えば、まことに馬鹿なことだと舌を噛む。たった数十回の咀嚼が、憎んだって構わないほど劇的な変化をもたらした。
 それはカラシナの高くのぼる日、女の子が誕生日を迎えた翌月の、わたしの五歳の誕生日。わたしは、女の子より渡されたバースデーカードを、読むと同じく食べた。そこに描かれていたショートケーキがあんまり美味しそうだったからというわけではない。なにしろ女の子には言わなかったがタルトのほうが好きだった。食べてしまったのは、動物的愛情表現に似ている。
 しかし、女の子に見られた事実が、わたしを傷つけたのではない。女の子の母親が、紙を食べたわたしを見たのだ。悲鳴をあげなかったものの、一番醜い顔を見た。以来女の子は、わたしを見かけても、母親に制されて、振ろうとした手を後ろへ隠すようになる。
 当時は後ろ指に気づかなかったが、なんのことはない。二ヶ月のうちに市街地を出なければならなかったのは、奇行とも言える咀嚼が噂になったからだろう。わずかに離れた場所へ越せば、母はわたしを教会へと連れて行った。
 中に入れば、丸い顔の、あごの肉が目立つ司祭が居た。白と黒の服を着て、夢みるふうに高い声を出す。

「お嬢ちゃん、食べてごらん」

 真っ白な紙を渡されて、幼心に違和感を覚えた。書かれていない紙は食べれないと首を振るわたしに、司祭は短くうなった後、祈りの言葉を記す。ふたたび手に戻ってきた紙を持ち、戸惑うわたしの肩に、母は狂気の笑みで手をおいた。
 鬼胎にごくりと飲み込んだ文字は、古びた味がする。いまにも吐き出したかった。

「悪魔憑きだ」

 そうして紙を飲み込んだわたしに、司祭の浮かべた薄ら笑い。下からのぞく、汚れた黄色い歯に、嘘みたいにつくられた声に、叶えもせず、だのに祈られる背後の偶像に、寒気がした。
 悪魔払いと称してわたしに無意味な聖歌を七年歌わせたのも、この司祭だ。悪魔などいもしないのに、巧みな話術でまんまと母をだめにした。
 それでも幸福と言えることがあるとするのなら、大司教への告発で、司祭が教会を離れたことか。後から聞いた話では、聖職者としてあるまじき行為を信者にしていたらしい。わたしだって初潮を迎えた頃から、頬に触れる分厚い手には吐き気がしていた。
 気づけばあの司祭と、従う母との日々で、文字を食べる行為はわたしの中で大きく変わってしまった。悪魔払いは望んでなどいない結果となる。それこそ、呪いじみていた。
 わたしは食事とは別に文字を食べるようになり、食べた文字に関する記憶が失われた。加えて同じ空間にいれば、声の大きさに関わらず、悪意を持った言葉は心身に突き刺さる。
 そうして新しい司祭が街へ来た半月後、教会の側を通ると、花に水をあげていたその男に、君のことは知っているよと言われた。連合で、人間として異例なわたしが問題になっていると思っても、たいした違いはないだろう。あの追放者の知るところで、どこまで正確に伝わっているかは甚だ疑問だが。
 あるいは、外部から来る人間の珍しさに、わたしの噂をわざわざ聞かされたのかもしれない。異国から来たであろう指の黄色い人間に、化け物と呼ばれたことさえある。それにいまさら隠せるものでもなし、自分の真性を告げると、男はおだやかな目をした。今日みたいに話しかけられないよう、悪魔の話をしたのにだ。

「君は良い子だね。だから悪魔など享受せずにいなさい。信仰がなければ、神様だっていないんだよ」

 まるで神に使える者とは思えない。たおやかに笑んで、肌をなぞる低い声が落ちる。また、話をしに来て。
 行くわけがないと思っても噤んだ口を開かずかかとをめぐらせれば、後にハッとする。
 あの男の前では、痛みを覚えなかった。十二年の歳月で、初めて出会う。




(ほ××れが×××××××××まし×こ×××見×な×を××ているの×わ××××寄る××けもの×いつま×××あの××あくま×××××が悪い××お前なんか×××××)

(ぐしゃり)




 食べてみせて。
 司祭さまの言葉に、わたしは挑戦的な口振りでいいよと答える。出来ないだろうとからかわれるのは嫌だった。
 膝の上にある折られた封筒のかどを小さくちぎる。口に運ぶ瞬間、掴まれた手首。

「無理を言ったね」

 離れた場所にいたはずの司祭さまが、なぜか隣に座っていて、触れた耳に直接心音が届く。
 暖かいと思ったのは司祭さまの腕の中にいるからだ。驚くも、自分の歯がガチガチと鳴っているのに気づいて、納得する。しばらくこうしていたのだろう? 紙を持つ指先は白くなっていた。
 あの日から、わたしは人前で食べることが出来ない。

「ごめんね、ごめんね。君を傷つけようと思ったわけではないのだよ。私の思慮が欠けていた。ごめんね、本当に」

 苦しそうにこぼす司祭さまの手に力がこもる。掴まれた肩や手首が痛いと思った。やさしさは触れた場所からかろやかにあふれる。やわらかいところは傷口のように溶けあってかさぶたになるのかな。
 司祭さまと、呼ぶ。震える息で口端を上げるのは、そうでもしなければみっともなく泣き出してしまうと知っていたからだ。司祭さま、耳を塞がずに聞いて。

「例えば父や母やきょうだいや、血のつながりで、なくなってしまうことのない存在であれば良かった。そうすれば大事に出来る。その権利さえあれば、ねえ、出来るのに」

 誰よりも近いところに心はあった。だのに大事に出来ないのは、わたしと司祭さまが他人だからだ。ほんの少しで良い、流れる血液が同じであれば、わたしは。
 口の近くまで持ち上げていた腕を下ろす。紙を離せば、一瞬のうちに風にさらわれてどこかへと消えた。
 うわごとに似ているとわかっていて口にしたのは、一体誰のためだったのだろう。決して見えないはずなのに、司祭さまが顔を歪めたのだと知る。ほらいまなら、司祭さま、思い出せるだろう。忘れたことなどなかったはずだ。

「あるいは。あるいは、恋人だって良かった」

 望まれていないのではない、望んでいないのだ、間違ってはないでしょう?
 だってねえ、故郷はどんな色をしていた? 冴え冴えと咲く花の名前は、渡り鳥の羽の連なりは、どんなだった? 帰ることなど最初から許されているのに、司祭さまは思い込んでいるのだ。

「冗談だよ、司祭さま。わたしたちはせいぜいきょうだいで、恋人には見えない」
「……そうだね」
「うふふ」

 悲しい顔は出来ないみたいだった。言葉なのか息なのか、輪郭の曖昧な音を漏らして頷く司祭さま。そっと離れて微笑んでみせると、司祭さまもなよよかに笑う。
 空からは、雪解けの知らせがあるというのに、粉雪が降り始めた。やわらかく舞って、肌や地面に触れれば一滴さえ残さずに消えていく。天気雨に似て、陽光があかあかとそそがれていたからかも知れない。見下ろした司祭さまは、真後ろからの太陽で、長く伸びたわたしの影の中に座っていた。

「またね、司祭さま」


 手は振らないし、声の調子はもういつもと変わらない。それに、逆光でわたしがどんな顔をしていたか知らないだろう。
 それで良いのだ。




(――パリ――――――ゃむしゃむし――――パリリ――――リッ――――――サク――しゃ――ッビリ――ビィイッ――ぐし――っくしゃ――りむしゃ――――――しゃ――ゃパリ――)

(ごくり)




 家に帰ったその日の夜中に、いままで届いていた封筒の数々を燃やした。便箋は封を切ったときに食べてしまっていたから、これでもう正しいことは思い出せない。ついでに、もはや読みとれないほど真っ黒に書かれたノートや、ちぎられて表紙と用紙が分離しそうなノートも一緒に火の中へ。
 夜中の作業だったからか、周囲には気づかれなかったようだ。ベランダの軋む音で母が起きてしまうのではないかと心配したが、大丈夫だった。密やかに立てかけたはしごで移動する。
 そうしていま、手紙を書いている。一連の作業はずいぶん前から決めていた。司祭さまに宛てた手紙だ。
 書いていると不規則に、ペンを持つ手がぶるぶる震えた。それでも初めて、一生懸命に書いた手紙だから、ミミズの這ったような字でも書き直さないで送ろうと思う。
 司祭さま、星のうつくしい夜の話だよ。わたしはいま、汽車に乗っている。
 手紙には、この汽車が今日の最終だということ、隣に座るおじいちゃんが良い人だということ、クラッカーを買ったということ、行く当てなどなく、それでも、もう街へは戻らないのだと言うこと、それから、残り八秒のカウントでわたしの誕生日だということ。思いついたこと全部を、舌にはのせられないから書き連ねた。文脈はぐちゃぐちゃで、もしかしたら理解することは不可能かもしれない。それもまた良かった。
 だけれどね、たったひとつだけ叶えて欲しいことがある。それだけは、後生だから、どうか叶えて欲しい。司祭さまだけが叶えられることなのだ、だって神様はいない。
 揺れる汽車の中で、なるたけ丁寧に丁寧に、ペンを動かす。たったひとつだけで良い、それだけで十分ほどこされていた。
 願いは、行き着いた街で生活をして、それで、わたしが死んだ後のことだ。確かなものはなく、けれど絶対に司祭さまのいるところへ帰るから、そのときは、祝詞をあげて欲しいと。だからそれまでは生きていてと、インクのにじむ紙に書きつける。
 そうして最後に、さいわいを願っているということ、どの言葉よりも強く残した。送り先はないから、二度と会えないかもしれないと思う。
 カウントはアップで、1、2、3、4、5、6、7、8。嫌な目を思い出して、瞬間、司祭さまの声がよみがえる。君は良い子だね。あの日もそう、忘れていたけれど、わたしの誕生日だった。
 便箋を三つ折りにしてたたみ、封筒に名前を書くときになって、わたしは気の利いた文句のひとつでも書こうと思った。それで、さんざん考えて迷った末に、ペンを動かす。司祭さま、パパ、ママ、ブラザー、シスター、ベイビー。
 きっと笑うだろう。快活に声をあげて、司祭さま、笑って欲しい。



 ダーリン、祝詞をあげろ。
 神様などいなかった。










 サイアイ|2012.0708

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