電灯のように青かった。水面の向こう側、滲むみたいに光が揺れる。遠くの明るみに咲き誇る気泡。その酸素を吐き出したのが誰か、君はしばらくして理解する。
呼吸は上手く出来なかった、それでも、不思議と苦しくはない。肺にはもう一呼吸の許しさえないというのに、おかしな気分だった。溺れているようで、焦りもせず、それならこれは、沈んでいるだけだ。
海鳴りの音を聞きながら、君は青に抱かれる。目を閉じても、まぶたの裏が青かった。まるで侵食されている、君の発狂をうながすかのように。
それでも声を殺して、君は一度水を掻いた。底に引き摺られながら、ふやけた右手をかざしたのは、なぜか。
君は、探していた。ずっと。君は。
澄み渡る七月の空が水平線に溶ける色をしていた午後、君は内地から転校してきた。
教壇に立ち、挨拶をする。名前と前の学校名と、たったそれだけの短い挨拶だ。大きくも小さくもない声で言って、君は頭を下げる。まばらに鳴る拍手が、だるそうに歓迎していた。
担任から指定された君の席は一番前の左側。開かれた窓からは海が見えた。君は何気なく、けれどいつも、海を見ていた。
ワイシャツとリボンのその中で、君のセーラー服がやけに浮いている。制服はあと数日しないと届かないそうだ。
ちやほやとされることを君は嫌がる。大勢と話すことも、あまり好きじゃなかった。
君は囲まれるたび、上手く逃れて屋上へ向かう。長い階段を上ると、拒むように青い扉。
屋上にはプールがあった。それに、君の来るずっと前から、扉の鍵が壊れていることを知る男がいた。
「また来たのか、おはよう、もう昼だけど」
日照りに足の裏を焼くようなアスファルト。ビニールの天井が落とした陰の中で、男が言う。
いつの間にか現れる君に、男はなにも聞かなかった。
許すように、受け入れるように、陰の半分を渡す。男はこの場所を共有することを嫌がらなかった。
微笑みは、おだやかに。
プールに張られた水際を通って、君は男が寝そべる隣に座っていた。
膝を抱えながら、水面を滑るトンボの姿を目で追う。内地にはいなかった。だから図鑑でしか見たことがない。
空は相変わらず、水平線に溶ける色をしている。
「トンボは珍しいか」
流れる雲を数えていた男が言った。
教室ではあまり声を聞かせないのに、男はここだと饒舌だ。低い声がよく風に乗った。男は一度、君を見る。
「さっきからずっと見ている。珍しいものじゃないだろうに」
「向こうにはいないよ」
「ほんとうに? じゃあ、それなら、珍しいのか」
あとで捕まえてあげるよ、と言う男に、君は首を振る。
だって図鑑に書いてあったのだ。トンボは崩れやすい。触れた場所から崩れる。だからいいのだ。
めくりすぎて擦り切れた図鑑を思い出しながら、君はそう首を振る。すると視線の先で、ふうんと男が頷き、微かに笑った。
羽音を鳴らして飛んでいくトンボ。小さくなって、空に消えた。手持ち無沙汰に男を見れば、男は再び、雲を数え始める。
そして、君は少し笑ったあと、二人して、雲を数えた。
「お前の故郷の、水の色を教えて」
雲が重なり空を見せないある日、君はプールのふちに座っていた。足の膝までが水の中にある。前後に足を動かせば、端まで染みるように広がる波紋。
午後からあるはずの水泳は、あいにくの天気でない。もうしばらくで、雨が降るそうだ。
君は伏せていた顔を上に向けて、今にも降り出しそうな空を見る。かわらず屋根の下にいる男の言葉に、その足が止まった。
男は君を見るけれど、君は男を見ない。
「濁ったピンク。ここのひとは、みんな知らない」
口を開いた、君の、その、なんて絶望的な声。
黄色を含んだピンクは、傷みかけの桃のようだ。指が沈むほど柔らかく、腐るのを待つばかり。
君は覚えている。いまだって鮮明に、捻った蛇口から溢れる色を。
「……あそこは光の街だ。光を生むために、ずっとガスを吐き出している。だから、ガスと雲が混ざって、雨は黄色い。それに空は」
まぶしい光でオレンジだ、と君は語る。
その様子はまるで、責め立てられているようだ。男の声はないのに、君は絞るみたいに吐く。呻き連なる言葉の端からは、憐れみや、苦痛や、懐かしさが、滲むよりも、ずっと、溢れていた。
記憶の中で、濁った光が放たれた。街を覆う色たちは、赤や黄色とさまざまだ。そしてその光のどれもが、目を潰すように、しかし、煌々と輝いている。暗闇を恐れる街には影がなかった。
思い出す光の街は、決して綺麗なものだけじゃない。むしろ汚いところばかりがある。だのに、故郷は愛しい。故郷は愛しく、影のあるここに来るのは怖かった。それでもいらないと思ったのは、どうして。
君は誰より、青に焦がれた。
「街のそこら中が、ひどい色をしている。ゴミ捨て場には死体があった。だけどそれも、ごくごく普通の日常だ」
「言うな」
「大人も子どもも、ポケットにナイフが入っていた。そうじゃなきゃ、生きていくことさえ出来ない」
「言うな。もういい、もういいよ。言わなくていい。もう十分だ。もう十分に、お前は」
男の言葉に、君はあっけなく壊れる。降り始めた雨の中、君の指は、喉を潰すように爪を立てた。掻き毟るその手を男が掴んだけれど、赤紫のミミズ張れは変わらずに白い喉を走る。
狂ったように暴れる君の体は傾き、手を掴む男ごとプールの中へ。
派手な音を立てて、白い水飛沫が上がった。君はただ、止まらない口を塞ぐことにひたすらだ。男もそれをわかっていた。
だから男は、ほどけた手を君に伸ばす。呼吸なんて忘れて、叫んだ。大丈夫だ。
君は手を取る。差し出された男の手を強く握ると、同じぐらい強く握り返された。冷え冷えとした青の中、繋がる温もりに、ようやく君は落ち着きを取り戻す。男がそれに気づいて、雨を飲む水面まで水を掻いた。ようやく水中から上がれば、二人して、吐き出した酸素を取り込む。
君の視界で、男が、どこか女神のように笑った。
「友達になろう。だからお前の痛みを分け与えて」
そのときの、君は、雨に隠して泣きながら、ひどい顔で笑い返した。
それからの日々は、かがやくようだ。
君は男に連れられて、木に登ったり、自分で摘んだ木苺を食べる。生まれて初めての経験だった。星の結びを知るのだって初めてだ。目を輝かせる君を見て、男は笑う。楽しかった。
そうした一つの、波の高い日、君は図書館から一冊の本を借りてくる。星座の本だ。
「オリオンだ。星を知らないお前でもわかる星なら、一等星がいい」
男がページをめくりながら言う。
君の故郷はまがまがしいほどの光によって、星の灯りがなかった。
「スピカもいいけどね。俺はリゲルとベテルギウスがいい、夢がある」
「……オリオンって、冬の星でしょう」
「あぁ、確かにそうだよ。だけど夏の夜明けでも見えるんだ」
「詳しいね。星が好きなの?」
「いいや、全然」
陰の中で男が首を振る。物知りな男のことだから、知識の一つでしかないのかも知れない。君は本にある星をなぞりながら、どこかそんなことを思った。
仰向けになった男は、羊雲を見て呟く。
「星だけじゃなくて、もっとお前に、うんと綺麗なものを見せるよ。近くに花畑があるんだ。ひまわりがたくさん咲いている。遠くにだって行こう。ホタルの光を見せるよ。それから、香りたつ山葡萄の皮だとか、雪を残した渡り鳥の尾だとか。竜巻を起こす鮮やかな蝶の羽も、ナナカマドの白い花のつゆも、みんな。俺の知る綺麗なものを、余さず、お前に見せるよ」
「うん」
頷いた君は聡明だから、唐突な男の言葉をきちんと理解する。だけどそれ以上なにも言わない。もうすでに決めていた。変えようのないことだ。
男は知っていた。後ろから回収した、君のノートに小さく書かれた一文字を。知っているのと同じぐらい、危惧していた。
青。それは願うように君を殺す色だ。
いつだって、そっと、海を見ていた。海面がきらめく日も、雨風に荒れる日も、教室の窓から、プールのある屋上から、帰り道の上り坂から。
いつだって、そっと。
見ているだけで、君は、海に触れたことがない。それほどまでに、焦がれていた。触れてしまえば戻れないのだ。
男に頷いた日から一週間後の、ひどく海が静かな夜明け前。君は海沿いのバス停にある、赤いベンチに座っていた。ひとりだ。
視界に広がるのは、ガードレールの向こうで、ささめく海。いつも海上で互いを追う鳥たちは、まだ眠っているようだ。ただただひたすらに、静けさだけが滴る。
何度も目にした時刻表を見る。十時から六時の台まで、一本もバスが通っていない。知っていた。それでも、座っている。
けれどそれもやめにして、君は立ち上がった。夜が明ける前に、砂浜に立とうと思う。男の教えてくれたオリオンが見たい。
セーラー服のスカートを風にあそばせ、君はガードレールに沿いながら歩く。
昨日のうちに制服は届いていた。けれどいまもダンボールの中。ガムテープさえとらなかったのは、君が願っていたからだ。
それはもう、どうしようもない、願いだった。
君は海を目指す。
ベンチはまだ、温かいような気がした。
ローファーと靴下を脱いで、砂浜に立つ。割れたガラス瓶。欠けた貝殻。打ち上げられたクラゲ。よくわからないものもあった。君はその一つ一つを見ながら、砂の音を鳴らす。
そうして、ようやく、海に触れた。
夏でも冷たい海水が、導くように波打つ。ゆっくりと進めば、海鳴りが君を呼んだ。気づけば、すでに腰まで浸かっている。
君は祈るようにして空を見る。夜明けの空にオリオンがあった。ひどくきれいだった。
男はもっと綺麗なものを見せてくれると言った。見たいと思う。けれど君に未来はない。波が胸まで覆う。
不意に、遠くで誰かが君の名前を呼んだ。海鳴りも君を呼んでいる。だけど違うと思った。
君は振り返る。わかりきっていた。その名前を呼ぶのは男だけだ。
「どうして」
誰にも告げずに来た。男にだって、告げずに来た。それなのに男が立っている。
砂浜は遠い。だのに声はよく響いた。
「昨日、お前は屋上にいなかった。もしやるなら、今日だと思った」
「だけど」
「なんで、どうして、なんて。一番星が見えるのはここだ。俺が何年ここに住んでると思ってる」
あきれたように男が言う。
オリオンの後ろでうっすらと赤が滲んでいた。
海鳴りが、君を呼んだ。君はひかれながらも、立ち止まったままに口を開く。
「楽しかった。本当に楽しかった。もっと綺麗なものが見たかった。知らないものを教えて欲しかった。秋も冬も春も、次の夏も綺麗なものが見たかった」
肺が圧迫されるようだ。苦しい。君はそれでも続ける。半ば叫ぶように。
「でも十分幸せだ!」
君の願いは、死ぬことだった。
青に掻き抱かれながら、君は笑って、背を向ける。男の表情は見れなかった。
空が、初めて海を見たときと同じように、水平線に溶ける色をしている。
君は首まで水に浸かった。もう止まらない。そういうつもりだった。だけど後ろからかかる声に、その体は震える。
「お前の生まれてから、今日までの話を聞かせて。長くなったっていい。だってこれが最後だ」
振り向かなかった。それでも止まってしまった。海鳴りが幾度となく呼ぶ。君は震えたままだ。
海水の味がする。もう呼吸は上手く出来ない。男の声が君を呼び戻す。
「初めに言ったみたいに、お前の痛みを、俺に分け与えて。大丈夫、お前は助かるよ」
もういいと言った男の、あの記憶は、拒絶だと思った。いたわりの言葉も慈しみの言葉も、君は知らない。
だけど君は許されていた。生きることも死ぬことも。その手が例え弾丸を込めたとしても、ずっと、許されていた。
振り返れば、君はもう男に背を向けない。微笑みは女神のよう。けれど、どこか人間らしい。
「わたしは、生きても、いいの」
「俺が許すよ」
君の前にいたのは、女神でもなく、天使でもなく、王様でもなく、大人でもない、ただの友達だった。
それでも君は、君のすべては、許される。
君はずぶ濡れで、砂浜にあがった。
君はずっと助かりたかった。生きたかった。君が生きてもいい、理由を探していた。ふやけた右手を伸ばしたのは、助けて欲しかったからだ。差し出されたその手を、君は掴みたかった。
茹だるほどに熱く、むせるような風が吹く。それでも温もりに近しいここは、三十七度の楽園だ。だって君は救われている。最初から、もうずっと、救われていた。
「話をするよ。生まれてから今日までの話だ」
男の隣で、君は確かに笑って言う。すると男は、君に応えるように笑った。
それから、未来の話をしよう。
ここは、青く、うつくしい。
ao.|2011.0802