それはあまりにも不幸せな、幸せの話。





 1



 白雪に隠れて息衝くその生命は、暖かな世界にそっと生まれる。土を押し上げた小さな双葉が、太陽を目指してたおやかに揺れた。積乱雲の下で咲き誇る、一面を黄色に染める大輪。
 窓から見えるあの丘に、芽吹くひまわりがわたしは好きだ。

「でもね、アンジェラ。科学的には違うんだよ」

 本で読んだ記録を口にすると、彼はそう言って微笑んだ。慈しむように目を細めて、ずっと太陽を見ているわけではないのだと。若いひまわりだけが日中を回り、ほかはもう東を向いているだけらしい。
 わたしは、わたしの胸に届くほど育ったひまわりの花に触れながら言った。直にこの花は、太陽を見なくなる。

「サンフラワー、太陽は関係ないのですか」

 向日葵、日回り。焦がれるように太陽を追うから、その名がついたのに。
 わたしは、太陽を追っているようで追っていないひまわりの瑞々しい花がしなびないよう手を離す。切り離せないはずの太陽を自ら断ち切るひまわりは、なぜか少しだけ切なかった。そっぽを向くその姿が、太陽を諦めたように見えて。
 わたしはいつか頭をもたげなくなるひまわりを背にして、彼を見る。すると、はためく白衣に身を包んだ彼は、茶色の目を柔らかくゆがめて笑った。そうだなぁと、探るように口を開いて、閉じて、また開いて。



 きっと太陽に似ていたんだ。





 2



 家の裏に咲き乱れるたくさんの花は、水をやると嬉しそうに揺れる。雨の降らない毎日に、渇いた土がホースの水をたっぷりと飲んだ。ふと気付けば小さな虹が出来ていて、七色を見上げる花はまた嬉しそうにそよぐ。
 けれどわたしは、水を与えすぎてはならないと教えられたことを思い出して、惜しみながらもコックをひねった。
 晴天の続く昼下がり、彼の呼ぶ声。

「アンジェラ! ほら、見てごらん!」

 表で楽しげな彼の声がして、わたしは手早くホースを片付け彼のもとへ向かう。丘に面した玄関へ行くと、そこには白いなにかが飛んでいた。

「……蝶? それとも鳥、ですか?」
「ううん、これは飛行機と言うんだよ。空を飛ぶ船でね、やっと完成したんだ」
「ヒコウ、キ」

 パタパタと四枚の羽を回して、ヒコウキはわたしの頭の上を泳ぐ。彼はこどものように無邪気に笑って、旋回するヒコウキを見ていた。
 その後、しばらくそうやって回っていたヒコウキが、次第に動きを止め、漂う風に下降していく。落ちて行くヒコウキを手のひらで受け止めた彼は、わたしにその手を差し出した。

「飛ばしてごらん、すぐ出来るから」

 ただ見ているだけのわたしに彼はヒコウキを渡して、右側にあるネジのようなものを回すのだと言った。だからわたしは戸惑いながらもその通りにネジを回す。
 ジージーキコキコ、ジージーキコキコ、ジージッ。
 もう回らないと彼を見れば、彼はヒコウキを手のひらにと笑う。すくうように形を作ってヒコウキを持つと、さっき飛んでいたみたいにヒコウキは四枚の羽を動かした。

「放って」

 短い彼の言葉にわたしは、ボールと同じ感覚で指先からヒコウキを放る。
 すると目の前でひたむきに羽ばたく白が、ゆるりと青い空を背景に浮かんだ。

「すごい」

 宙を泳ぐその姿に思わず声をあげるわたし。
 視界の端で愛おしそうに彼が笑む。





 3



 もう半分のひまわりが、太陽を追わなくなった。





 4



 彼は科学者だ。あまりよくは知らないけれど、確か無機物を有機物に変える研究をしているらしい。数年前まで動物や植物のことを調べていたのに、いつの間にか違うものを扱っていた。もし、わたしが気まぐれで読んだ本に無機物ばかりが出てこなければ、恐らくいまも、なにをしているかわからないままだっただろう。不思議がらなければ特にわかるような研究ではないのだ。
 とにかく、気づけば彼は、彼と数えるほどの学者たちで不思議な研究をしていた。不思議、と言うのも、言葉にするのが難しいからと彼が詳しく教えてくれないだけなのだけれど。
 とは言え、紙から花へ、箱から鳥へ。部屋を飛び出して廊下に進出するほど資料を散らす彼を側で見ていれば、なんとなくなにをしているかぐらいはわかった。

「三時ですよ」

 だからわたしはそんな多忙な彼のため、いつものように壁にかかる九分遅れの時計を見て声をかける。日がな一日机に向かっている彼に、安息の時間を。
 しかしこうして時間を告げなければ、彼はいつまでも机と向き合っている。窓から差し込む光の明暗にさえ気づかないで、ずっと。
 放っておけば石化してしまいそうな彼に、わたしは心持ち焦って、もう一度言った。

「三時ですよ。そろそろ休んで下さい」
「……あぁ、もうこんな時間か」

 のんびり背もたれに体を預けて仰け反りながら、彼は呟くみたいに言って背骨を鳴らす。わたしの内心など知らずに、丸まっていた背中が小気味の良い音を立てて伸びた。
 そしてのろのろと立ち上がって、彼は陽光の暖かなリビングへ。

「アンジェラ」
「なんですか」
「今日はバタークッキーがいいな」
「バタークッキーですよ」

 頬杖をつきながら笑う彼に答えて、わたしは焼きたてのバタークッキーをテーブルに。そして淹れたばかりのコーヒーに角砂糖を落として、彼の前へカップを置いた。

「おいで、アンジェラ。ゼンマイを巻いてあげる」





 5



 わたしは人形だ。人間のようで人間じゃない、ゼンマイ仕掛けの人形。だけどもしこの背にあるゼンマイがなかったら、わたしは人間に見えるらしい。そう言う風に作られたのだから、当然と言えば当然だけれど、継ぎ目なく温かに、触れたとしても人形だとわからないほど精巧に、わたしは作られたのだ。腕の良い変わり者の人形師に、長い時間をかけて。
 キリキチキリ、キチキリキリ。
 肩甲骨あたりにある大きなゼンマイを回しながら彼は、息を吐くような静けさで言った。



 アンジェラ、きみは覚えているだろうか。





 6



 あまりにも長い間、とりわけわたしは何年も、同じ場所で過ごしていたから生まれた意味なんてすっかり忘れていた。いや、多分きっと、生まれた意味なんてものはない。わたしは、わたしたちは、創造主の気まぐれで偶然生まれたのだ。
 チリィンと扉の開く音。黒い髪の、虫も殺せないような男が顔を覗かせる。

「いらっしゃァい、科学者サン。来てくれなァいと思ったよ」
「来るつもりはなかったさ。お前は少ししつこいよ」
「ははぁ、優しい優しィい科学者サンにアタシは頭が上がらないねェ」

 へらへらと笑うわたしたちの創造主と知り合いらしい彼は、いままでこの店の扉を開けたどのひととも違っていたように思う。ガラス越しに目が合った瞬間、彼は困ったように笑ったのだ。
 不相応。
 浮かんだ言葉はその一言で、わたしは薄暗い店内に日だまりが出来たのだと思った。暖かく笑う彼が、滅多に開かれないカーテンに遮断された太陽の光みたいだと。
 わたしはその時少しだけ、このショーウィンドウから出て、彼と外へ行きたいと願った。けれどわたしはここにいる多くの人形の中で唯一の欠陥品だから、その願いは決して叶わない。背中のゼンマイは、わたしだけがもつ、カセ。

「おやまァ、科学者サン。どォの子に惚れたんだい?」
「そんなわけじゃ」
「いィから、いィから。アタシに隠せェると思ォってる? ほゥら、言ってごらんなさァいよ」

 変わらない明日は今日と同じく、ただ繰り返すだけ。だからわたしは彼らの言葉を聞くのをやめて目を閉じた。人間のように眠ることは出来ないけれど、こうすればわたしは彼を見なくて済む。
 だけどすぐに、閉じた目は開かれる。

「ハニー色の髪をした彼女が」

 ハニー色の髪をもつのは、わたしだけ。





 7



 彼女はねェ、八万六千四百秒に一回、必ァずゼンマイを巻かなければならなァいよ。
 それでもいィなら好きィに連れて行くといィさ。
 彼女が初めェて笑顔を見せたから、お金なァんて要らないよゥ。



 そのかわァりィ、名前をつゥけてあげてねェ。





 8



「きみは、天使のようだから」

 キチキリキチリ。
 巻き終わるのと同時に彼は言って、深爪気味の指で崩すようにわたしの頭を撫でた。
 そしてわたしの名を彼は呼ぶ。

「アンジェラ」

 大切そうに口にする彼の、舌の上で転がされたその響きが好きだ。骨張った長い指や、ときおり震えるまつげと同じくらいに、彼がわたしを呼ぶ、心地の良い甘い声が好きだ。なにより、わたしは笑ったときに目を細める彼が好きだったから、なんですかと一言だけ返して彼に顔を向けた。
 けれど彼は迷ったように口を開いて一息、それから「ううん、なんでもないんだ」と微笑む。それなのに、彼がいまにも泣き出してしまいそうだと思ったのは、きっと。



 わたしの背中のゼンマイが、二回半、回らなくなったからだろうか。





 9



 久し振りに雨が降った。夏の日には珍しい、音のない静かな雨だった。
 わたしは揺り椅子に座りながら、ぼんやりと窓の向こうを見る。洗濯機の回る音に混ざって、時偶、洗い場にある桶に張った水面が移ろう音。コックの締めかたが緩かったせいで、蛇口から滴が落ちているのだ。
 雨はあまり好きじゃない。だけど雨の匂いは好き。
 曖昧な思考でわたしは立ち上がり、小降りになってきた雨を背にして、洗い場へ向かう。再び滴が落ちることのないよう緩いコックをキツく締め、素足で自然と床を鳴らしながら洗面所に移動した。そしていつの間にか脱水を終えた洗濯機のふたを開ける。しわくちゃになった服を一枚、一枚カゴにいれてから、わたしはそのカゴを持って窓を見た。どうやら雨はすっかり止んだらしい。
 外に出れば、雨上がりの眩しすぎない太陽が、キラキラと世界を彩る。丘の上のひまわりも、つややかに顔を上げていた。
 いつもとほんのり違う雰囲気の景色に目を奪われながらも洗濯物を干し、わたしが家に戻ると玄関先には濡れそぼった黄色。ハッとして近寄れば、黄色の小鳥が声をあげることもせず体を震わせていた。
 わたしは瀕死のその姿にうろたえ、手のひらで小鳥をすくうと家の中にあるはずの彼の姿を探す。

「どうしたの、アンジェラ」
「小鳥が」





 10



 玄関でバタバタとしていたせいか、階段の上からきょとんと顔を出した彼。手の中にある小鳥を見て弾かれたように大股で近づき、真一文字に口を結んで観察を始める。後に思い起こせば、どこに触れたら大丈夫なのか、彼はその判断していたのだと思う。けれどこのときのわたしは状況を飲み込めないまま、どうしたら良いかわからず、助けてと呟いた。
 小鳥の生死は、わたしと彼の手の上に。
 すっと顔を上げた彼は同じように手のひらを広げて、わたしに小鳥をゆだねるよう言う。そして移った小鳥を激しく動かさないようにして一室に入った彼は、機敏な動きでたくさんの器具を手にした。小さな体に対して割に合わないその数に、わたしは驚きながらも彼の邪魔になるだろうと廊下へ出る。平静さを失わない彼にわたしは目を覚まして、雨に打たれたのだと一目でわかるほど濡れた小鳥を暖めるために、リビングに駆けた。いつ治療が終わってもいいように、小さな暖炉へ薪をくべる。
 そうしてしばらくすると、部屋に入ってきた彼がその手に小鳥を乗せて暖炉の近くへ座った。やけどをしないよう、かと言って遠すぎないよう距離をはかって。
 それから彼は、切なげな顔をして告げる。

「多分、木にぶつかったんだろうね。右翼は折れて、喉に木片を刺していた」

 木で固定された羽に触れないよう頭を撫でて、彼は目を伏せた。小鳥は、彼の手の上で大きく胸を上下させる。

「……また飛べますか」
「わからない」

 短く返された言葉に唇を結んで、わたしは先に用意していた柔らかいタオルでその手から小鳥を受け取った。



 例え空を仰げなくても、それでもまだ小鳥は生きている。





 11



 翌日、わたしは彼とふたりきりで、ひまわりに抱かれるように小鳥の葬儀を終えた。
 だけどわたしは、知っていたのだと思う。飛べるのかと聞いても、大丈夫なのかと聞けなかったわたしは、どこかで小鳥の死に気づいていた。

「ピィ」

 聞こえる声は、空を飛ぶ鳥の群れから。
 掻き消されるぐらいの小ささでぽつりと呟いた彼に、わたしはそっと寄り添った。



 上手に息をするのは難しいね。





 12



「いつかわたしも、動けなくなるのでしょうか」
「もしかして、アンジェラ」
「わかりますよ、それぐらい。だって自分のことですから」



 最近じゃもう、油を差しても体が軋む。





 13



 終わりを感じると彼に言えば、彼は泣きそうな笑みをくれた。以来、わたしは彼の姿を見る機会が極端に減った気がする。お茶もせずただ義務のようにゼンマイを回して、彼は自室に籠もるのだ。
 アンジェラ。
 彼がわたしを呼ぶ声を、わたしはしばらく聞いてない。





 14



 丘に咲くひまわりがわたしの身長を越した。あと数日もすれば彼の身長さえ越えてしまうのかも知れない。
 眩しい太陽の下で横向き寝転がり、わたしはひとり、空を見上げる。ひまわりの中から見た空は、ただ見たときよりずっと綺麗だ。そしてわたしは目を閉じて、まぶた越しでもわかる黄色い光を浴びながら風を感じる。
 いっそ、このままとまってしまえたら幸せだろうか。
 考えながら、わたしは久し振りに呼ばれた名前にわざと反応せず黙る。すると、滅多に聞かない彼の焦った声がした。

「ごめんなさい、ここですよ」
「アンジェラ!」

 緩慢な動きで体を起こし、わたしはひまわりで隠れていた場所を知らせるように手を振る。気づいた彼は、ひまわりを掻き分けてわたしの前にしゃがんだ。

「急にいなくなるから」

 痛切なばかりのその囁きは、まるでいなくならないでという祈り。
 わたしは途端に申し訳なくなって、彼の手を握った。刹那、ひやりと伝わる手の冷たさに、言葉を失う。そして、聞こえた一言に。

「壊れる前に、アンジェラ。ぼくの心臓を」

 声すら失った。





 15



 少しだけ痩せた彼をとにかく休ませて、わたしは考える。本来ならば考えるまでもないけれど、彼の部屋を敷き詰めるぐらい無造作に放られた紙を見てからは、ただなにも考えずに断ると言うわけにはいかなかった。
 なぜなら何百枚にもなる紙に書かれたそれは、わたしを生かすいくつもの手だて。
 動かなくなるのは確かに怖い。けれど、彼がいるのならきっと大丈夫。だからわたしはそうまでしてここに在りたいとは思わないのに。
 彼の字が連なるそれを一枚ずつ拾ってまとめ、机の端に置く。この部屋から見えるひまわりは、もう数えるほどしか太陽を追っていなかった。首を垂れた黄金は、種に明日を残して今日を終えるだけ。だから、もうじき。

「夏が終わる」

 思った瞬間、声が聞こえて振り向けば、そこには当然のように彼。彼もひまわりを見て、時間を計っていたのだろうか。
 隣に立って窓の外の景色を映す彼は、愛しんでその目を細めた。そして差し込む西日に照らされたわたしを見て、「やっぱり、天使みたいだ」と目を細めたまま笑う。
 わたしはそんな彼を一瞥し、その姿に切なさを覚えて小さく首を振った。

「もしわたしが天使なら、心臓なんて要りません」

 目を伏せて語る声は、微かに上擦り震える。それでも続けなければならない言葉があるから、わたしは静かに彼を見た。

「その生命を奪ってしまうぐらいなら、わたしは壊れてしまいたい」

 そのためのひとりなら、わたしはなにも厭わない。
 はっきりと口にすることが出来て、ひっそり胸を撫で下ろす。しかし、対する彼にわたしはまた、言葉を探した。

「例えばきみが明日にでも壊れると言うのなら、ぼくは今日さえ生きないよ」

 悲しげな彼の目の奥に、渦巻く感情をわたしは知らない。
 だから。

「なんでそこまで」

 するんですか、と言おうとして、途中で口を閉じた。

「理由なんて、そんなものは後からでいいんだ」

 遮られて、彼がとびきり幸せそうに微笑んだから。その先はもう口に出来なかった。
 ささめく彼の一言で、わたしはひそやかにまぶたを下ろす。



 アンジェラ、どうか消えてしまわないで。





 16



 アンジェラ、そしてきみは。





 17



 気づけば彼の心臓はわたしの胸にあって、静かに脈打っていた。
 あの後のことをわたしはよく覚えていない。けれど、「人間になって、ぼくのための糧となって」と彼が微笑んだことは、強く刻まれている。
 どうしてこうなったのだろうと考えると、いまでもよくわからない。嫌だと首を振ったはずなのに、彼の心臓は、いま、ここにある。
 大事な、大事な、もしかすると生きることより重大な選択をしたはずなのに、わたしの頭からその記憶がぽっかり抜け落ちていた。その日、一日だけの記憶がぽっかりと。忘れようとして忘れたのか、彼が頭の中をいじったのか、わたしには見当がつかなかったけれど、それはせめてもの救いだった。いつかは思い出すにしても、いまだけは彼の生命の重さで潰れてしまいそうだったから。
 わたしは、彼のいないこの部屋で泣いた。彼の心臓がわたしの中で響くようになってから、少しずつはらんだ人間らしさで、いくら悲しくても出なかった涙を彼のいたこの部屋で流した。
 そうして、枯れてしまうまで声をあげて泣いたあと、この部屋で眠りについて、この部屋でわたしは夢を見た。
 目が覚めたときにはもう思い出せなかったけれど、また少し泣いてしまうほど幸せな夢を。





 18



 ぼくが死んだら、どうかきみの一番好きな場所へ。





 19



 ゼンマイのかわりについた傷跡が、羽根を失った天使のようだ。
 鏡に映ったのは一瞬で、ただの錯覚と言えば錯覚だろうけれど、わたしは確かにそう感じた。彼を連想させるひとつひとつが、どうしようもなくわたしを幸せにさせる。
 二日前、わたしは彼を白い棺にいれてひまわりの丘に埋めた。ついにひまわりはみんな東を向いてしまったけれど、引き換えに笑んだ黄色のまばゆさに、儚いまわりあわせの愛しさを覚える。
 しゃがんみこんだ足下に、いくつもの涙。脈打つ左から聴こえる、好きだった声。



 アンジェラ。





 20



 もしもまた壊れることを想像して、わたしは窓から見えるあの丘へ行く。
 もうここに、油を浴びたように輝く黄金のひまわりは咲いていなかった。降り続くやわらかな雪の積もる、白い十字架だけがある。

「もう春なのに、雪が降っていますよ」

 石塔の雪を払いながら言うと、桜の花びらがひっそりと雪に混ざって舞うのが見えた。どうやら丘の下の桜が、風でこっちにまで飛んできたらしい。
 ひらりひらり、染まった頬のようなピンクの花びらが石塔とわたしの間をよぎる。落とした雪に舞い降りた桜は、白肌についた接吻痕のよう。けれどすぐにその痕は、降り続く雪に消えていった。柔らかに注ぐ陽の光に溶けたら、花びらはまた見つかるのだろうか。
 雪の冷たさで赤くなった指先をこすりあわせ、わたしは白い息を吐く。暖かな世界が終われば愛しい夏が、彼とわたしの愛した夏が、また繰り返される。

「そうだ、春が終われば、夏が来る」

 相手のいない言葉の行方は知れず、ひとりごととなってどこかへ消えた。わたしはそれに小さな寂しさを覚えるけれど、聴こえてくる暖かな心拍がまるで返すように音を重ねるから、寂しさをしまって小さく笑った。

「幸せばかりの、夏が来ますね」

 ふたつの音がわたしの中に響く。彼として生き続ける鼓動と、わたしとして生き始めた鼓動。
 わたしは泣きたくなるほど愛しい音に耳を傾けて、声にした。



 ひまわりの芽が雪を破って出てきたら、打ち上げ花火を見ませんか。ここで、わたしとあなたの、ふたりで。










 科学者と人形/バッドエンドハッピー|2011.0511

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