星を浮かべた暗闇に体を預けて塵と塵のあいだを泳ぐ。見渡しても終わりは見えないけれど、見えるものがすべてなわけではない。例えるならばそう、無限。端も隅も見つからない世界。
 彼はそんな世界を泳ぎながら、月に手を伸ばす。初めて月に降りたアポロのように、彼もそこへ。掴むように伸ばした手が、空を掻いた。月に住むうさぎは何億光年先を走るのだろう。
 彼の頭が太陽の周りを走る星のように回る。そしてそれを絶つように、聴こえてくるノイズ。もうタイムオーバーのようだった。耳をざらりと撫でる音に混ざって、途切れ途切れに聴こえる声。なにを言っているのかはわからないが、おそらく命令だろう。実際、反転すると離れたところで戻れという合図をする白い影があった。
 命に背けば、それ相応の罰。彼は仕方がないと諦めて、月を見る。また明日、明日こそ月へ降りるよ。名残惜しむには時間がないので、彼は暗闇を進んだ。


 アストロノートは息をする。
 空っぽに浮かぶ星となってアストロノートは息をする。


 いつからか夜になっていつからか朝になった。光のない世界は、時間を簡単に忘れさせる。まるで永遠のようだと、そんなことを彼は思った。
 窮屈な場所で伸びをして、立ち上がる。さあ、今日こそ彼は月へ。開かれた暗がりに飛び出し、塵の輪っかをくぐって月に降り立つ。何度降りても震える体は、きっとこの世界を愛してやまないのだ。彼はここでしか生きられない。
 一億分の四光年、彼は地球から月を目指す。光のない場所で、アポロの軌跡を辿る。そしてそっと足跡をつけた月を、彼じゃない誰かが調べるのだ。
 彼はクレーターをぐるりと回って走る。それから簡単に浮く体で、月の上を泳いだ。辿り着いてもそこからさらに三センチ先を走るうさぎとの距離はいつだって縮まらない。彼は見えないうさぎに手を振って、再び足跡をつける。
 ゆっくりと離れていく月に彼は愛をうたう。月の欠片は持ってきた、だからもう帰らなくちゃならない。


 アストロノートは飛翔する。
 重力を無視してアストロノートは羽ばたく。


 重くなっていく体で踏み出した足は、地面に触れると同時にぐらぐらと揺れた。そして彼は重力に逆らえず、地面に引き寄せられて崩れ落ちる。
 実感した。
 ここは地球。
 帰ってきたのだ。
 彼はあまり動かない頭で考えながら、立ち上がろうと腕をつく。しかしその腕は足と同じく力が入らない。酸素の重さが彼にのしかかり、なんだか潰れてしまいそうだ。
 彼が上手く立ち上がれずにいると、駆け寄ってきた数人の男が支えてくれた。見れば、一ヶ月ともに行動した飛行士も支えられている。上手く歩けずに抱えられているのも、見慣れた光景。
 そうして彼は筋力と免疫力の低下のために、皆と療養所に運ばれた。


 アストロノートは目を閉じる。
 愛した宇宙を夢見てアストロノートは深く眠る。


 朝も夜もわからない世界は、宇宙と呼ばれる黒だった。彼はアポロを見たあの日から月を望み、宇宙に焦がれる。
 彼は地球で生きることが出来ない。宇宙でしか生きられない。彼の世界は、宇宙だ。
 点滴の針を抜いて、彼は言う。もうこんなものは必要ないさ、そろそろ君に別れを告げよう。



「僕の名前はアストロノート、重力に負けた人間の塵」





 アストロノートは呼吸をしない。
 重力に逆らって愛する世界の夢を見る。










 アストロノート|2011.0404

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